〔文構1〕 我が国における交通制度の歴史に関する以下の文章を読んで、後の問に答えよ。
a大化の改新後、導入された律令制のもとで国家組織が確立し、交通制度も整備された。都と全国の国府を結ぶ駅制の成立がそれである。『 A 』によると、駅家は地勢険阻なところを除いて、 B 里ごとに1駅ずつ置き、駅馬は都から大宰府までの大路に20疋、東海・東山両道の中路に10疋、その他の諸道を小路として5疋ずつ置いたとあり、旅人の使用に供した。bしかし、これらの便宜を受けられたのは公用に赳く役人に限られ、義務として庸や調の中央への運搬を強いられた諸国の正丁などは利用することができなかった。
鎌倉幕府が開かれると、朝幕関係の維持やその他の理由で旅の機会が繁くなるに応じて、幕府のもとで鎌倉と京都との間に63駅を配した宿駅制度が成立した。1279(弘安2)年、 C が実子為相と継子の間に生じた所領紛争解決のために、京都から鎌倉へ下った際の紀行文である『十六夜日記』も、こうした状況のなかで記されたのであった。
降って、c室町時代になると、商品流通に伴う水陸両面での交易は、前時代よりもさらに興隆になった。水路では瀬戸内はもとより日本海沿岸でも諸港を結ぶ廻船が就航し、陸路には京都を中心に馬借・車借と呼ばれる交通業者が出現し、各地からの物資の輸送に従った。dこの隆盛に目をつけた幕府や公家・寺社が財政の一部にするため、自領内に関所を設け一種の通行税としての関銭等の徴収にあたった。このような経済的目的で設けられた関所が廃止に向かうには、織豊政権の成立をまたなければならなかった。
近世に入り、e東海道・中山道などの五街道や街道脇の宿場が体裁を整えてくると、諸国の交通往来が頻繁となり、都市と地方あるいは地方相互の交流も活発となった。また、この時代には、自ら朱印船貿易に従事しながら、大堰・富士・天竜川の水路開発や高瀬川の開削事業などに貢献した D や、東廻り・西廻り航路を開拓した河村瑞賢らの活躍により、海上交通の整備も進められた。こうした交通網の発達は、人々の往来や物資の輸送を容易にしたばかりか、f文化の伝播にも大きな役割を果たすことになったのである。
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